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■秋田竿燈の起源

 竿燈の起源については,地元の米屋で発生したとする考えや,北前船による京都・大阪からの交流,秋田城主佐竹氏の転封によるものなどの諸説があります。

 一方,竿燈に欠くことの出来ない提灯は,ロウソクの発明によって生まれました。ロウソクが日本に伝えられたのは室町時代後期(15世紀後半)で、日本では各藩が和ロウソクの原料を採取する黄櫨(はぜ)の栽培を奨励するようになってから和ローソクの利用が一般化しました。宝暦・天明年間(1751-1789)にはその利用が飛躍的に拡大し,京都の祭りで御神灯提灯が並ぶようになったのもその頃といわれています。秋田藩で一般庶民が自由に使えるようになったのは,宝暦元年(1751) の頃といわれています。

 竿燈は,佐竹氏転封より以前に,近郷の村々にあった子供によるねぶり流しの行事が,秋田の城下町づくりによって町内ぐるみで移住した際に引き継がれ,大人の行事に変わっていったものと考えられます。お盆に,門前に12〜3mの杉の木を立て,提灯を高く掲げる風習があり,昭和30年頃まで続いていましたが、この高灯籠が和ローソクの利用により移動が可能となり,竹の竿に沢山の提灯をつけるようになり,現在の竿燈へと発展していったと考えられています。
 

 これらのことを考え合わせると,竿燈の起源は宝暦(1751-1763)の頃に始まり,佐竹義和のお国入りと大豊作を機に一段と盛大になり,文化年間にはさらに工夫がこらされたと予想されます。

 ねぶり流しの行事は,秋田ばかりではなく,東北各地は勿論,関東地方や九州でも行われていました。東北地方では広く「ネプリ流し」あるいは「ネブタ流し」と言い,群馬地方では「ネブト流し」,長野では「オネンブリ」を流すと言います。熊本県一宮町の阿蘇神社では古い漢字でネムリナガシと書く神事があります。

 これらはみな言葉も同系のもので、丁度この季節は,労働も激しく,暑さも厳しく,つい眠ってしまいます。そして,眠っている隙に病魔が入り込み,眠り病に侵されると思われていました。その睡魔を退治するために行われていた行事が「ねぶり流し」です。

 一方,七夕は,畑作の収穫祭として麦の実りを祝い,胡瓜やナスの成熟を神に感謝する行事で,平安時代にも行われていた日本古来の行事です。この七夕とねぶり流しは一連の行事で、それが中国から伝わった,中国の星祭の重要な節日である7月7日の「七夕」と時期的に重なり,昔からのしきたりがすべて星祭りの名の下に一つになったものです。現在,竿燈の最上段の2個の提灯に「七夕」と印しているのはこのような歴史的な背景があるからです。

参考:竿燈の本 堀田正治氏著 秋田文化出版 


■秋田竿燈の歴史

.藩政時代初期
 この頃の「ねぶり流し」は合歓(ねむ)の木の先に尾花(すすきの花穂)を結び,桐の葉に詩歌や願いごとなどを書いて吊るし,これを持った子供達が隊列を組んで, ”ネンブリ流し流したよう”と囃しながら夕暮れの町を練り歩き,穢れや不浄を払って最後は旭川に流したとされています。

 やがて和ロウソクが手に入ると灯籠を作って思い思いに頓智や洒落のきいた俚言を書込み,これを持って高くかざして町を練り歩くようになりました。

 しかしながら,享保七年(1772)の,「ねぶり流し」に関する最古の記録「川口町の萬覚帳」によると,七夕の晩,大勢の若者達が高張提灯をかざし,踊りながらはやし立てて町内を練り歩くことを固く禁ずるお触れが出ていたようです。

 これは,藩外にロウソクの原材料を売るものが増え,和ロウソクや生蝋の自給体制が崩れたことにより,藩外からの移入の増加にともなう藩財政の窮乏による倹約の指示によるものです。なお,湯沢の七夕に絵灯籠を飾るようになったのは翌八年(1773)と言われています。

2.藩政時代後期
 文化元年(1804)の人見蕉雨の「秋田紀麗」によると,「ねぶり流し」行事は,この頃には,子供たちも晴着を着て笹竹などに時代を風刺した絵や謎書きをした灯籠や願いごとを描いた短冊を吊るし,町中を練り歩き,川へ流して無病息災・家内安全を祈りました。


3.明治維新
 慶応3年(1867)に幕府が大政奉還をし,王政復古がなると,新政府は,封建的な政治・経済・社会制度を一新するいろいろな策をとり、神仏分離,太陽暦の採用,五節句,八朔などの廃止が行われました。星祭として奈良時代(710-784)から技術上達を願う風俗として,公家や武家社会で盛んに行われてきた七夕行事も,中国から渡来したもので,日本古来のものでないとして取り止めになってしまいます。竿燈についても廃止の意見がありましたが,庶民の行事については,下民の自由に任せてよいのではないかとして,存続されました。

4.明治天皇東北巡幸と竿燈の命名
 
 明治14年(1881)9月,明治天皇が東北巡幸で秋田を回られた際,竿燈を天覧に供しようとして県に伺い書が提出されています。明治39年(1906)から大正5年(1916)の秋田市長であった大久保鐡作の名で,竿燈と書かれています。竿燈の名は,禅宗の七仏からインド・中国歴代の諸師の伝記を収録した景徳伝燈録の「百尺竿頭須進歩」からヒントを得たものとされ,当時の新聞などにより,大久保秋田市長の発想によるものと分かりました。新聞紙上で竿燈の名前が定着するのは明治36年(1903)以降で,それまでは棹燈籠,竿頭籠,竿燈,竿頭などと書かれていました。

5.明治時代
 この時代の竿燈は氏神を持たない行事であり,家族制度の強く残っている町内では,氏子総代である町内会長の指示に従って,行事が行われ,長男以外は正会員にはなれなかったようです。次男,三男は竿燈を担いで歩くだけで,竿燈を差すことが許されてはいませんでした。そこで次男,三男組は町内とは別に,○○町内有志という竿燈を作ったと言われています。

 町内によっては,2番目に大きい,中若がつくられた。このようにして,一町内から二本,三本と出竿するようになり、また形も現在のように統一されましたが,一番下の提灯の数が6個で,大若は現在よりも2個多い48個の提灯が吊るされていました。一方,武士や町人の階級制度がなくなり,武士や足軽の住んでいた町内からも竿燈を出すようになったようです。

6.竿燈廃止の危機
 明治6年(1873),太陽暦になって竿燈も実質的に一ヵ月早くなると丁度梅雨の季節になり,毎年雨に悩まされていました。明治33年(1900)に旧暦に戻されました。このようにして40〜50本の竿燈が4〜5本にまで減少したのです。明治34年〜35年 (1901〜1902)に市内に電灯が灯り,電線が張りめぐらされ,外町通りでの竿燈は明治35年(1902)限りで廃止となり,翌36年(1903)からは楢山グランドで行われていました。しかしながら,下駄履きによりグランドが傷んで荒れることからことわられる羽目になり、3年間で元の外町に戻ったが電灯線の折損事故が絶えず,翌々年からは千秋公園の二の丸で行われるようになりました。

7.竿燈会の発足
 竿燈は職人達にとって日頃蓄えられたエネルギーを発散する絶好の機会でもあり、ストレス解消の場として,派手な喧嘩が付き物でした。一方,他県から観光客が来るようになり,年々竿燈が賑わいを増して来たのを機に各町内の代表者が話し合い,県都秋田市にふさわしい行事に盛り立て,喧嘩などによって市民の指弾を受けないように自粛,努力することになったわけです。昭和6年(1931)秋田市竿燈会を結成しました。

 発生の起源から分かるように,竿燈は本来民族行事として生まれた庶民芸能であって神事芸能ではありません。竿燈会発足後は,藩政時代,通町橋の袂に集まって藩主に挨拶してから町を回ったことに習い,竿燈まつりの初日の早朝,初代藩主佐竹義宣侯を祀る八幡秋田神社に各町の代表者が集まり,期間中の無事を祈願し,御幣と紅白のお供え餅を戴き,この御幣を竿燈の先端に飾るようになったのです。

8.竿燈の中断,復活,そして幼若の誕生
 昭和12年(1937)7月,日中戦争が始まり,竿燈は中断されました。そして昭和20年 (1945)戦争が終わりましたが,7年間のブランクと若者の戦場からの帰還が少なかったことなどから,復興はとても厳しいものでしたが,早坂吉助竿燈会初代会長以下の努力により,翌21年(1946)に復活の運びとなりました。しかしながら,紙や油の不足により,提灯が作れず,日程を延期し9月29日に開催されています。

 初めは1日だけだった竿燈祭りも,昭和29年(1954)から2日,39年(1964)から3日間と増え,63年(1988)からは,今と同じ,8月4日から7日までの4日4晩となりました。出竿の数も復活当時の24〜25本から増加の一途をたどり,平成8年(1996)には過去最高の228本となりました。昭和28年(1953)から,それまでは一番小さい竿燈が小若でしたが,幼稚園児でも持てる幼若が作られました。

9.職場竿燈とスポンサー竿燈
 明治36年(1903)に県内で初めてのラムネ工場が設立され,同41年(1908)同社の社員とその身内の人々によって竿燈を出竿したのが、広告竿燈の始まりです。昭和30年代(1955〜)に入って,祭りの意味も変化し,昭和33年(1958)「秋田いすゞ」が戦後初めて職場竿燈として参加しました。その後次第にその数が増え,平成8年には大小合わせて57本の職場竿燈が参加しました。

 一方,各町内の竿燈は,車社会となって市内練り歩きが無理となり,ご祝儀の収入が減って,維持費に苦労するようになったのですが、各町内はスポンサー竿燈を持って,その出竿料で町内竿燈会の維持費を捻出するようになりました。

参考:竿燈の本 堀田正治氏著 秋田文化出版